介護のプロへの応援誌「ふれあいケア(全国社会福祉協議会出版)」11月号より半年間「えっせい」のコーナーを執筆させて頂くことになりました。第1回目のテーマは「天職」です。
原稿を掲載させて頂きますので、宜しければ、お読み下さいね。
第1回「天職」
みなさん、はじめまして。今月から6回に渡って、つれづれなるままにエッセイを書かせて頂きます。どうぞ、宜しくお願い致します。
第1回目は、自己紹介を兼ねまして、私がなぜ料理人を志したかについて書かせて頂きます。昭和36年生まれの私は、4000gの足の大きなジャンボベイビーだったそうで、母乳もすぐに飲み干し、野菜がたっぷり入った離乳食も、本当によく食べたそうです。幼稚園に入る頃には、同い年の誰よりも頭1つ分以上、縦横共に大きくて、制服などは「特注が当たり前」でした。
とにかく、小さい頃からよく食べましたので、小学校に入る頃には「超肥満児」で、運動神経が鈍く、体育の授業や運動会が大嫌いでした。走れば、いつもビリ。跳び箱は怖くて飛べない。鉄棒の逆上がりも出来ない・・・。今、思い出すだけでも、本当に辛く恥ずかしい思い出ばかりが蘇ります。当然、女の子にもモテませんし、コンプレックスの塊りでした。
そんな私が大好きだったのが「給食」と「図画工作」の時間でした。「給食」では、私が高学年になったころから脱脂粉乳に代り「牛乳」が毎日出るようになったのですが、中には、飲めなくて困っている友達も何人かいました。そんな時には、私が代りに飲んであげたり、食の細い友達の分を食べてあげたりして「感謝される醍醐味」を子供ながらに味わっていました。
「図画工作」については、私の祖父が「左利き」で、腕の良い墓石職人だったそうなのですが、どうやら隔世遺伝で「私も左利き」。絵を描いたり、彫刻を掘ったりするのが大好きで、何度もコンクールで入賞していました。
そんな小学生時代でしたが「人生を左右する出来事」が、5年生の時にありました。今でも、はっきりと覚えていますが「最初の家庭科の調理実習」で「目玉焼き」を作り、たまたま上手に出来て、クラス全員の前で先生に褒められたのです。「はい、みんな!小暮君の目玉焼きを見本にするのよ!」その瞬間、全身に鳥肌が立つほど感激したのを忘れません。おそらく、みんなの前で褒められたのは「人生初」だったものですから、あまりにも嬉しくて「よし!ボクは一流のコックさんになって、全国の人達に美味しい物を食べさせてあげるんだ!」と、固く決心してしまいました(笑)。「今から46年前の嬉しさと感動」を胸に、ひたすら頑張り続けて、今の私がいます。「子供には、とにかく良い所を徹底的に褒めて、才能を伸ばしてあげることが大切なのだ」と、つくづく思いますね。
私は、自分が大好きなことを仕事に出来て、本当に幸せ者だと思います。まさしく、家庭科の授業で褒められて「天職」に巡り合えたのですね。
最近は「食育やキャリア教育の授業」で、全国の小・中・高等学校にお伺いすることが増えました。多くの子供達が「天職」を見つけられるように応援してあげたいものですね。